It’s All Good!-Calming Tummy Tea

 

今夜は『It’s All Good!-Calming Tummy Tea』

 

 

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結局、一生孤独のまま生きるなんてできない。

 

本当に誰ひとりとして関わりなく生きている人なんて、この世にはいないのだと思う。

 

 

 

ここ数日、実家に帰っていた。

母は仕事でほとんど家にいなかったけれど、それでも人の気配や空気のある場所にいられるとあたたかかった。

 

それに、家族は他にもいる。

 

4匹の愛しいかわいい毛玉たち。

2匹のモルモットと2匹の猫。

わたしの大事な家族。

 

 

ここ数日は心が安らかだった。

家で本を読んで、猫たちと遊んで過ごす毎日。

暇な時間はいくらでもあったけれど、自宅にひとりでいるときのように嫌なことを思い出してしまうことはほとんどなかった。

 

あの家で、色々なことをひとりで全部抱え込んで誰にも話せないでいると、世界中に見捨てられたような気分になる。

 

だって、辛いとき、困ったときに弱音を吐ける相手なんてひとりもいない。

 

 

たったひとりの親友にさえ、全ては話せなかった。強がってしまった。

 

ママには全然話せていない。

 

もしかしたら彼なら、その唯一になってくれるかもと思ったけど。違った。

 

 

 

だから、結局どこにもいない。

一生、誰にも弱音を吐けないままに孤独と向き合って生きていくことを思うと本当に辛くて。

もう終わりでいい。終わりたい。

毎晩のように、そう思ってしまう。

 

 

 

ひとりは、嫌。

 

結局ママはひとりじゃないから、わからない。

わたしの気持ちなんて。

 

 

 

この一年でわたしがどれだけ傷ついて、心をすり減らして、どれほど限界なのかちっともわかっていない。

 

ひとりは嫌。

もう、嫌。

 

 

来年は誰かと心を寄り添える年になればいいな。

Winter Night Fruit Tea

 

今宵は『Winter Night Fruit Tea』

冬の夜に相応しい、ルビーのように赤いお茶。

 

 

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昨晩、『ハリーポッターと賢者の石』を読破した。

数日前、電車の中で少し読んでからずっと読んでいたのだけど、昨日の晩ついに最後まで読み切ってしまった。

 

ハリーポッターシリーズはわたしが小学校低学年くらいに母がはまって、わたしも読み始めた。

 

母は一巻があまりに面白いから、二巻以降の日本語版がでるのを待ちきれずに英語の原作本を買って先に読んでいたほどだった。

 

母は英語版しか買わなかったから、わたしは日本語版を全巻自分で買って読んではまって、弟もそれを読んではまって、家族全員で夢中になっていた。

 

映画も観に行ったし、一時期通っていた英会話教室のハロウィンパーティーには、ハーマイオニーの仮装をしたのを覚えている。

母が編んでくれた、グリフィンドールの真紅色の長いマフラーを首にぐるぐる巻いていた。

 

大きな葉っぱを持っては、ニンバス2000だのファイアボルトと名前をつけてはしゃぎ、作中に出てくる呪文を弟と唱えあった。

 

 

映画が上映されるたびに、小説を読み返したくなって一から読み直していたし、少し時間が経てば魔法の世界が遠のいた気がしてまた読みたくなって読み返していたから、ハリーポッターシリーズは本当に何度読んだかわからない。

 

原作が最終巻を迎えて、映画も最終章を終えるとハリーポッターロスがわたしたち一家を襲った。

 

最終巻を読んで、わたしたちは心の底から感嘆の声をあげた。

誰もが納得のいくハッピーエンドだったし、物語のはじまりからこの終わりは決まっていたのだと、本当に感動した。

J.Kローリングはいったいどこまで考えて、この物語を書き始めたのだろう。

そのくらい何十年越しの伏線を回収するような話が多くて、あの壮大な物語を彼女はどうやって考えているのか不思議でたまらない。

 

 

ハリーポッターロスが続いて、やっとそこから冷めてきた頃に、ファンタスティック・ビーストの上映が決まった。

わたしたち家族はみんな別々の場所にいて、一緒に観に行くことはなかったけれど、それでもみんなそれぞれの場所で映画を見て、電話で感想を語り合った。

 

子どもの頃、胸を打たれた作品を大人になってからも楽しめる。

それはなんて嬉しいことだろう。

 

ファンタスティック・ビーストにも、ハリーポッターシリーズとの繋がりがあって、あちらこちらに伏線が転がっていて。

数年越しに明らかになる謎や驚きがつまっていて。

 

J.Kローリングは本当に魔法界に生きているに違いない。

そう思ってしまうくらいに、あの世界観の構築は緻密で。

あの物語のキャラクターたちは本当にひとりひとりが生きていて、ひとりひとりに歴史があるから、脇役なんてただのひとりもいなくて。

J.Kローリングの頭の中に入りたい。

そうしたら、その全てがわかるのに。

 

昨日の夜は久々に夢中になって、本を読み耽った。

最後まで読み終えたのは朝方だった。

小学生の頃、初めて読んだあの頃に戻ったみたいで楽しかったな。

 

やっぱり本は好き。

数時間だけでも、本の世界で生きているような気持ちになれる。

 

 

 

今夜も本の世界に旅に出る。

 

 

 

 

 

Acid-Base Balance Herbal Tea

 

 

今夜は『Acid-Base Balance Herbal Tea』

 

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昨日は朝が早かったからめずらしくかなり早い時間に眠れました。

夢も、見なかった気がする。

 

 

 

気づいたことがある。

 

わたしはそのときの瞬間がそのときしかないと、この時間は二度とないかもしれないと思っている。

それは意識的なものではなく、感覚的で本能的なもの。

無意識のうちに、その時間が二度と訪れないことを意識している。

だからその日に叶えたいことを全て叶えようとする。

心のどこかでいつも次なんてないのかもしれない、と思っているのかもしれない。

どうしてそんな風に思うようになったんだろう。

 

 

思い返してみても、きっかけが思いつかない。

 

 

忘却は救い。

でも忘れたくないこともある。

 

 

時々、思い出してしまう。

忘れてしまいたいのに、思い出してしまうと苦しくなることが分かっているのに。

 

やっぱりまだ、だめなのかな。

想うことを完全にはやめられない。

 

思い出すと苦しくなるような記憶って、ひどく嫌な記憶とか悲しかったことじゃなくて。

どうしようもなく幸せで、これ以上ないほどに好きが溢れている頃の記憶で。

 

だからこそ、簡単に忘れられなくて。

忘れたいとも思えない。

 

 

もっと忌々しい記憶なら、すぐにでも忘れたいと願えるのに。

 

あまりに幸せな記憶だから、それを手離すのは惜しくて、忘れたくないと願ってしまう。

 

 

普段は意識的に忘れようとしている。

思い出さないように、違うことで頭の中を埋めるようにしている。

 

でも、ふとしたときに彼との思い出が滑り込んできて途端に苦しくなる。

 

 

これは、呪い。

幸せが悲しみに変わってしまう、あまりに哀しい呪い。

 

 

 

忘却は救い。

忘れている間は彼を手離せる。

 

 

 

彼のことを考えずにいられる日は、心が楽だ。

切り離された時間を生きている。

これからはきっと、もっと遠くで。

 

 

 

それでも、心の奥底では未だに叫んでいる。

あの頃に戻りたい。

彼のことを心の底から好きだと思っていた、悲しみも怒りも、疑いも混じらない不純物の混じらないまっさらな心で、彼を好きだと言えたあの頃に。

幸せだと、心の底から思えたあの頃に。

手を伸ばせば彼に触れて、触れられることのできたあの頃に。

 

 

戻れるのなら、戻りたい。

もう一度、もう一度。

 

何度だって。

 

 

もう、それを声にして願うことはできない。

きっと、もう二度と。

 

 

 

 

Green Fortune Tea

 

 

今宵は『Green Fortune Tea』

ほっとする味、緑茶です。

 

 

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今日は急に大学に行かなきゃいけない用事ができて、久しぶりに朝早く起きて片道三時間半かけて大学に行った。

 

長い長い通学時間に好きな音楽を聴きながらうとうとして、目が覚めたら人がぎゅうぎゅうに電車に詰まっている光景がなんだか懐かしかったなあ。

 

寒い駅のホームに静かに陽射しが差し込んで、線路を白い光で照らしていく光景を、白い息を吐きながら眺めていた。

 

確か、びっくりするくらい雪の降った朝にわたしの朝が早すぎたから大学から休校の連絡がなくて。

電車が止まる前にと、自転車でいつもよりずっと早い時間に駅に向かって始発に乗ったのに途中であえなく電車は止まってしまって。

本当にゆっくり、徒歩と変わらないんじゃないかってくらいに遅い電車でなんとか少し進んだところで大学から休校の連絡がきて。

遅いよお、って文句を言いながら途中で引き返した。

最寄りに引き返すと、もう自転車なんてとても走れないレベルで雪が積もっていて。

猛吹雪の中、20cmくらい積もった雪の中を足元をぐちゃぐちゃに濡らしながら自転車を押して帰った。

濡れた手袋の中の指先も、濡れたブーツの中の足も凍ってしまうほどかじかんでいて、凍え死ぬかと思った。

 

あんな、過酷な通学をしていた頃が懐かしい。

今ならそんな日が来たら、大学に行くのは早々に諦めてベッドに潜り込んで二度寝する。

 

 

 

今日は用事が終わった後、すぐに実家に引き返して、また長い長い帰路を辿った。

 

Kindleに落としたハリーポッターを読みながら帰って、本に熱中していたらあっという間に地元だった。

本に熱中する感覚が久しぶりで、今でもこんな風に本を読めることが嬉しかった。

 

本の世界に引きずり込まれていく感覚がたまらなく、好き。

 

15時半くらいに電車に乗ったときは、窓から差し込む沈んでいく太陽が途中すごく眩しかったのに、地元に着く頃にはもう周りは真っ暗だった。

 

駅についてからも読むのをやめられなくて、Kindleなのをいいことに読みながら歩いた。

 

本を読みながら歩けちゃうなんて最高!って馬鹿みたいに思ってた。

 

 

今週は本を読みふけることにする。

昔のわたしを取り戻せたら、少しは何か見えてくるかもしれない。

なんて、根拠もなく思ってる。

 

 

 

Bloomy Turmeric Tea

 

今日のお茶は『Bloomy Turmeric Tea』

黄色いお茶。

 

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昨晩から実家に帰っていて、今日は母とふたりでびっくりドンキーに行った。

昔から家族でよく行ったお店。

ちょっとしたご褒美みたいに使っていたお店。

 

わたしはパインバーグディッシュといちごミルクが大好きだった。

酢豚に入ってるパイナップルとか、焼きパインが嫌いな人って結構いるけど、わたしは大好き。

 

わたしの今住んでるところの近くには、店舗がないから懐かしくなってしまって。

弟がハンバーグの横に添えてあるサラダのマヨネーズが嫌いで、サラダは丸ごとわたしにくれていて。

それを、途中からマヨネーズを克服してくれなくなったことを不満に思ってた。

そんな話をしていたら、ママは楽しそうに懐かしそうに笑ってくれて。

 

弟もわたしも家を出て、子どもが巣立った後の母の寂しさみたいなものが少しだけ感じられて。

わたしが帰るといつも来なくていいと言いながらも、美味しいごはんを用意していてくれたり、あたたかいパジャマを買ってくれていたり、そういうのがすごくあたたかくて、嬉しい。

 

 

昔から大好きだったいちごミルクは滅多に頼ませてくれなくて、すごく高いものだと思っていたのだけれど、今日メニューを見たら300円くらいしかしなくて。

あれ、こんなものだっけ?って。

自分で払えるようになると買えるものが増えて、それはとても嬉しい。

ハンバーグも昔より小さくなったように思えて、それを言うと母はあんたがおっきくなったからだよ、と笑った。

 

 

 

未来を想像することさえ、希望を抱くことさえもしんどい。

わたしは今はそんな時期で。

そんなときにこういう思い出は、とても優しくてあたたかい。

だからかな。最近は昔のことばかり思い出している。

 

 

最近、あまり寝付けない夜が続いていて。

嫌なことを考えてしまったり、明日バイト行くの嫌だな、とか明日大学行くの嫌だな、とかそんなときにいつも眠れなくなる。

 

だから、そんな夜はいつも自分の終わりを想像する。

夜のビルから飛び降りることを想像する。

わたしの終わらせ方はいつも決まって同じ。

死に方にも色々あると思うけれど、わたしにとってはそれが一番美しい。

深い深い海の底に沈んでいくのもありかな、とは思うけど。

どうせなら、命をつなぎとめるものが一切ない状態で、この身ひとつであの光の海に飛び込んでみたい。

 

暗い暗い夜、ビルの屋上から見下ろした底にはたくさんの色とりどりの光があって。

あの宝石のような輝きの中に、空の暗闇から流れるように飛び込めたら。

どんな気持ちがするだろう。

 

落ちて、堕ちて、墜ちて。

 

あの光の粒の中で、弾けて、散って、終わる。

 

 

 

どうせ、終わるのなら。

命を使わないとできない経験をしたい。

なんて、馬鹿かな。

でも、どうせ終わるならそんな終わりは結構悪くないかもしれないなって自分勝手に考える。

 

 

自分で命を絶つなんて、そんなことを考えるのは病気や戦争で命を落としていく人たちに、生きたいのに生きられない人たちに失礼だとか。

そんなことを言う人はきっといるし、わたしの考えていることは馬鹿なことで愚かなことだとは思う。

でも、想像するくらいはいいでしょう。

 

だって、わたしの世界はここでしかなくて。

わたしの辛さや苦しみはわたしにしかわからない。

わたしの命をあげるから、この苦しみを代わりに背負ってよ、なんて言ってもそんなことはできない。

誰も代わってなんてくれなくて、わたしはわたしを生きるしかないんだから。

だから、想像するくらい。

 

 

もう疲れたなあ、終わりたいなあってくらいの気持ちで、しにたいって思う夜もあっていいんだ。

 

そうじゃないと、やってられない。

 

 

例えば明日、戦争が起きて命を落としても。

例えば明日、災害で命を落としても。

例えば明日、事故で命を落としても。

別にそれならそれでいいや。

 

そのくらいの気持ち。

 

もちろんそれは今に限った話で、数週間先、数ヶ月先にはすごく楽しくなっていて、絶対しにたくないって思っているかもしれないけど。

 

今は別に、終わるなら終わってもいい。

 

もう疲れた、終わりたい。

 

そんな夜を今日も越えて、馬鹿みたいに眩しい朝がやってくる。

朝起きて、きっとわたしはがっかりする。

ああ、また。

また今日がはじまる。

わたしはまだ終わることを許されない。

 

 

 

 

Fortune Herbal Tea

 

 

今日は『Fortune Herbal Tea』

残りのお茶も随分少なくなってきました。

 

もう今年も終わりかあ。

この時期になると毎年、新年の占い記事を読む。

占いは絶対こんなことが起こる!と盲信しているわけではないけれど、毎年、毎週チェックしてる。

なんとなく頭の片隅にとどめておくだけ。

だから、わたしの見ている占いは絶対にこう!ということしか言わない占いや何の根拠もないふわふわした占いではなくて。

 

 

星を読んで占い師が自分の言葉で綴った未来の日記のような柔らかい文章のものだけを好んで読んでいる。

 

占いというよりも、その人の語る言葉や考えが好きで、その言葉に支えられたり背中を押してもらえたりするから、そのために読んでいる。

 

 

一年のはじめと終わりに見て、年末に振り返ったとき、たしかに占いのとおりかもしれないなあって振り返るのが好き。

 

 

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昨晩はけもなれの後にもうひとつ、ドラマを見たんです。

もうそのドラマの最終回でめちゃくちゃ泣いてしまって、今日は目が腫れていて朝のメイクがちょっぴり大変でした。

 

 

『大恋愛〜僕を忘れる君と〜』

正直、タイトルからしてハッピーなドラマではないし絶対最後は泣かせにかかってくるな、とは思っていた。

 

 

戸田恵梨香ムロツヨシの組み合わせが、本当に本当に良くて。

本当に恋をして、愛し合っているふたりにしか見えなかった。

 

オープニングで尚の手のひらから砂がこぼれ落ちて、それを真司が受け止めていて。

それはきっと、記憶のこぼれていく尚を受け止める真司を表していて。

 

 

色々考えてしまった。

 

 

好きな人を、自分の愛した人を忘れるってどんなに辛いだろう。

恋人も家族も友達も両親も全てを忘れてしまったら。

忘れてしまうのは、とてもこわい。

忘れられてしまうのも、とても悲しい。

 

尚は自分が変わっていくこと、忘れてしまうことの恐怖や悲しみをひとりで抱える道を選んだ。

それは愛する人たちが、自分が彼らを忘れることで傷つくことを知っていて。

彼らが傷つくことよりも、自分がひとりで終わらせることを選んだ尚の強さだ。

 

真司もまた、衰えていく自分の姿を見られたくないから尚は姿を消したのだから探さないほうが彼女のためなんじゃないか。

そんなことをこぼしていた。

 

尚も真司も自分のこと以上に相手のことを先に考えて、思いやって、愛していた。

 

それでも、真司は尚を見つけたいと願うことは自分勝手で自己満足でしかないことを理解しながらも、それでも会いたいと。

尚に会いたいと願った。

 

 

尚も同じ。

真司や息子のため姿を消したけれど、少しずつ衰えて頭も働かない中で自分がいなくなった後の愛する人たちのことを思って生きていた。

あのビデオはまさにそう。

自分が全てを忘れてしまった後に、何ひとつ残らないなんてそんな悲しいことがないように。

愛した証を残した。

真司が会いたいと願ったように、尚のビデオレターもまた最後は会いたいと泣く姿だった。

 

 

 

記憶が消えていく中で、尚が自分の最後の場所として選んだのはまっすぐにそびえ立つ長い煙突の見える場所だった。

それは尚の大好きな小説。

ふたりを結びつけたあの小説の、尚が暗記しているといったあの部分。

「空に向かって突っ立っている煙突みたいに、図太くまっすぐにこの男が好きだとアンジェリカは思った」

記憶がなくなって、暗記していた大好きな文さえも忘れてしまったけれど、それでも尚はあの煙突を好きだと言った。

それって、記憶がなくてもどうして好きなのかもわからないけど、尚の中の「好き」は消えていなくて、残っていて。

あの煙突のように、図太くまっすぐに尚の「好き」は彼女の心にそびえ立っているってことで。

 

その想いが何に向けられたものなのかさえわからないけど、彼女の中には確かにあるんですよね。好きの感情が。

 

 

 

ようやく再会した尚に、はじめまして。と言った真司はどんな想いだっただろう。

自分のことを忘れて、思い出のアップルパイを食べても、自分のことが書かれた小説を読んでも何も思い出さない尚。

ふたりの共通の思い出が、自分ひとりのものになってしまう悲しさは計り知れない。

 

それでも、何度も彼女に会いに行って、小説を読み聞かせて。

もう一度、一から彼女と向き合った真司はまさにオープニングの砂を受け止める真司と重なって。

 

真司は尚のこぼれ落ちていく記憶や、思い出や、感情、その全てを受け止めて彼女を愛した。

 

最後に一度だけ尚が真司を思い出せたのは、言葉にしてしまえば本当に陳腐だけれど、奇跡としか言いようがなくて。

でもその奇跡は、尚と真司がひたむきに心の底からお互いを思って、一生懸命に愛し合ってきたからこそ起こったこと。

 

本当にタイトルのとおりに、大恋愛だった。

 

 

わたしにも、いつかあんな恋ができるだろうか。

あんなふうに全身全霊で、全てを捧げるほどに誰かを愛して、愛されるそんなことができるだろうか。

 

出会えたらいい。

心の底から愛せる人に。

そんな日が来るまで、わたしはわたしなりに一生懸命に生きるしかない。

 

 

いつか、あんな恋ができますように。

 

 

 

 

Baked Apples Tea

 

 

今宵は『Baked Apples Tea』

ちょっと癖のあるアップルティーです。

 

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今日はずっと言ってやろうと思っていたけれど、切り出せなかったことをついに言葉にして。何食わぬ顔をして接することができたので、ご褒美に大好きなケーキ屋さんで大好きなケーキを買いました。

 

よく買う季節の果物のケーキ屋さんとは別に、圧倒的にミルクレープだけを好んで食べているケーキ屋さん。


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有名だけど、やっぱり好き。

はじめてこのケーキを目にしたとき、最高!としか言えなかった。

だって、この夢のような断面。

夢がぎっしり詰まってる。

いつか絶対ワンホール買う!って一口食べた瞬間思ったよね。

 

 

 

そんな、最高のケーキをお供に楽しみにしていたドラマの最終話を2つ続けて見ました。

 

ふたつとも一気に書くのはもったいない気がしてしまうので、まずはひとつ。

 

 

『獣になれない私たち』 

 

最初は結構しんどそうな話だと思いながら見ていたけれど、とても愛おしい物語でした。

野木亜紀子さんの脚本が好きなんです。

 

とても話題になった、逃げ恥もよかったけれどあの作品はそこまで刺さらなかった。

 

でもアンナチュラルと今回のけもなれは彼女の脚本の中でとても好きな作品だった。

 

晶のような人って、世の中には何人もいて。

言いたいけれど言えない言葉を飲み込んで生きている彼女に自分を重ねた人はきっとたくさんいたと思う。

わたしもそのひとり。

 

野木さんは、現代を生きる女性たちが抱えている感情をとてもよくわかっていて、それを繊細に描いてくれる。

決して、女性差別をテーマにしました。とか、社会的問題を考えさせるお話。とか、そんな大袈裟に何かテーマを据えるわけではなく。

 

普通に生きているひとりの人間の悩みや葛藤を描いていて。

それはありふれているけれど、当人にとっては本当に辛いことで。

誰も取り立てて問題視するようなことではないけれど、現実を生きているわたしたちにとっては、少子高齢化だとか貧困格差とか、そういう字面の難しそうな社会問題や政治問題よりもずっと身近でずっと苦しいこと。

 

だから、晶の抱えている悩みや葛藤はこの社会ではきっとありふれていて。

それがありふれたものになっているのは確かに問題で、そういったものが社会問題に繋がるのかもしれないけれど。

それでも晶の抱えている悩みや葛藤はとてもリアリティがあって、わたしたちにとって身近なものだったからこそ、共感する視聴者は多かったと思う。

 

 

晶はありふれた悩みを持つ人間だけれど、晶は晶らしい生き方を選んだし、恒星も朱里も呉羽もみんな最後には自分らしく生きていける道を選んだ。

 

ひとつの作品に、仕事・恋・友情・人間関係……様々な要素があって、それこそがわたしたちの生活そのもので人生の一部。

それをリアルに描いてくれていて、最低だと思う人も、クズ野郎だと思う人もいたけれど、でもみんな人間らしくて最後には愛おしく思えた。

 

生きるって、難しいよね。

大変だよね。

ただ息をしていれば、心臓が動いていれば、生物的には生きてることになるけれど、人として生きるのにはそれだけじゃきっと足りなくて。

普通に生きることがすごく難しい。

 

日常に息苦しさを感じながら、毎日をやり過ごして、なんとなく生きている。

そんなのが、日常なんて。

わたしの人生だなんて。

そんなのは嫌。

 

 

だから、わたしらしく生きよう。

わたしはわたし、だもんね。