また行くよ

 

3連休前の金曜日。

土曜出社もよくある弊社からしたら、久しぶりな3連休。

運良く今夜は外回りの予定が入っていて、直帰できる今日はいつもより1時間も早く上がれた。

 

1時間違うだけで、こんなにも気持ちが軽いことをわたしはもう知ってしまった。

帰りにお洋服やコスメを見て帰ろうか。

前から欲しかった靴を試しに履きに行ってみよう。

さらっとウィンドウショッピングを楽しんで、電車に乗る。

今夜はやけに混んでいるしそのせいで電車は遅れているけど、いつものように苛々したりはしない。

 

電車の中でぼんやり考える。

今夜は何を食べようか。

 

ああ、お寿司が食べたいな。

基本的にわたしはいつも自分の食べたいものがわからない。

食べるものを考えることさえ億劫になるほどに。

大好きな食べ物はお寿司。

だから迷ったときはとりあえずお寿司かお刺身を買って帰る。

最寄り駅の持ち帰り用のお寿司をテイクアウトすることが、先月くらいからマイブームだったけど、最近は21時に閉まるそのお店に間に合う時間には帰れていない。

 

今夜もウィンドウショッピングを楽しんだばかりに間に合いそうになかった。

だけど、どうしても今夜はお寿司が食べたい。

もうお腹がお寿司の気分だもん、と食べログで最寄りのお寿司屋さんを検索。

そういえば、と前から気になっていたお店に行くことにした。

 

なぜ、わたしがこんなにもお寿司が食べたいのか。

それはきっと、昨日久しぶりにバイト時代の友人たちと集まったからだ。

はじめてのアルバイトはお寿司屋さんだった。

時給がいいからと母が見つけてきた求人に、はじめて電話をかけて、すぐに面接に行ったあの日は、思えばわたしの人生の大事なターニングポイントだった気がする。

 

人は必要なときに必要な人と出会うというのは、本当かもしれない。

はじめてのバイト先では、途中店舗は変わったけど大学4年間お世話になった。

はじめは叱られるし、めちゃくちゃ混むし、凹むようなミスもたくさんしたけど。

声を出して、笑顔で接客して、お客さんや店の人たちと仲良くなれるのは嬉しかったし、楽しかった。

 

今でもまた働きたいと思うくらいに。

昨日久々に会ったバイト仲間たちも、同じようにまた働きたいと思っていたことが嬉しくて。

懐かしい気持ちに浸るためにお寿司屋さんに足を運ぶ。

 

 

最寄り駅のお寿司屋さんには、当然知り合いはいない。

カウンターの奥の席に通されて、とりあえずビール。

仕事終わりのビールがこんなにもおいしいことを、社会人になってから実感した。

明太子の天ぷらと、たらと白子の揚げ出し。

好きな握りを10貫。

ちょっと欲張りすぎた。

 

でも、ひと口ごとに噛みしめて食べる食事ってこんなにおいしかったっけ。

最近はコンビニの蕎麦とかサラダとか、

適当に作ったごはんをささっと食べて眠るだけの毎日だった。

 

こんなふうに噛みしめるように味わう食事って、久しぶり。

人と会話を楽しむ呑みの席はたくさんあったけど、どうしても会話に夢中になってしまって、

こんなふうに味わう食事とは違った気がする。

 

毎日毎日、繰り返しのように日々をこなす生活をしていると、心がしんでいく。

言葉や感情に気づかないうちに蓋をしてしまっている。

 

美味しいごはんというものは、感情の琴線にさえ触れてくる。

 

美味しくて、美味しくて、久しぶりのひとりでの外食は心の声があふれて止まらなかった。

 

また来よう。

今度はシャリ少でお願いします。

 

 

カーネリアン

 

今年の春、ピアスを開けた。

ずっと開けたいと思っていて、でも痛いのはこわいし、急にピアスを開けて周りに何かを言われるのも嫌で、ずっとタイミングを掴めずにいた。

就職前の春休み、就職先がピアス可なのかもわからないまま、バイトを辞めて、実家に帰省する電車に乗る前に、耳鼻科に行った。

実家に帰ったら、親に保険証を返すことになっていたし、何より学生から社会人になるこのタイミングを逃したら、またタイミングを見失って、いつまでも開けられないままだと思ったから。

下調べもほとんどせずに、何かに背中を押されるようにしてピアスを開けた。

いつだってそう。やると決めてしまえば、すぐに動ける。

思い切ってしまえば、一歩を踏み出しさえすれば、なんだって思っている以上に簡単なのだとわたしは知っている。

帰省する電車に乗る前のほんの僅かな時間。

あんなに怖がっていたのに、穴を開けるのは一瞬で15分もせずにクリニックを出た。

そんなに早く終わると思っていなくて、クリニックを出てひとり呆然として立っていたっけ。

痛いと思っていたのに、ちっとも痛くなくて、こんなものならもっと早くやっていればよかったなぁと思った。

はじめてのピアスは小さなシルバーのピアスで、よく見ると星の形をしていた。

 

二ヶ月近く待って、ようやくファーストピアスが外れて、半年近く過ぎた今では毎朝どのピアスにするか選ぶのが当たり前になった。

 

お盆休みに実家に帰って、前にピンクの珊瑚のピアスがあると話していたのを思い出して、母に見せてもらった。

わたしが祖母からもらったネックレスと同じ、ピンクの珊瑚。デザインは少し古いけれど、小さく揺れるのがとても可愛かった。

母はわたしが生まれる前に、子どもができたら危ないからとピアスをやめて、もう穴はすっかり塞がってしまっている。

だから、そのピアスを譲り受けることになって。

それと一緒にしまい込まれていた他のピアスの中に、ひとつ。

目を惹くものがあった。

それは唯一見覚えのあるもの。

夕焼けのような色をした、オレンジ色の石。

無言でそれを手にとったわたしに、母はこれもあげるよ、と言ってくれた。

 

その石はわたしの苦い記憶を思い出させた。

幼いわたしの罪の記憶。

 

記憶は曖昧だけれど、幼い頃のわたしはその石がとても欲しかった。

それはもう、喉から手が出るほどに。

無論、あの頃はそんな表現さえ知らない。幼稚園児の頃の話。

 

昔、住んでいた家の近所にひとつかふたつ年上のゆきちゃんという女の子が住んでいて、たまに一緒に遊んでいた。

その子の家に遊びに行ったとき、ゆきちゃんはいくつか綺麗な小さな石を見せてくれた。

その石はもちろん本物の宝石ではなくて、よく見る天然石つかみ取り、みたいな子ども騙しの偽物の石だと今ならわかるけれど、幼いわたしにはとびきり綺麗で特別な石に見えた。

 

いくつか並べられた小さな石の中で、わたしはそのオレンジ色の石に惹かれた。

石を見せてもらっている間に、帰るよと母に呼ばれて、その石をもっと見ていたかったわたしは、ゆきちゃんが目を離した隙にとっさにそのオレンジの石を自分のポケットにしまい込んだ。

その後、わたしは罪悪感に苛まれながらも家でこっそりその石を眺めていた。

誰にもその秘密を言い出せないまま、わたしは引っ越して、ゆきちゃんには会わなくなって、それからゆきちゃんも引っ越したと聞いた。

ついに返せなくなってしまったことへの罪悪感は消えないまま、それでもゆきちゃんにばれなかったことに幼いわたしは安心した。

 

でもある日、わたしはその石を失くしてしまった。

どうしてだったか忘れてしまったけれど、家の駐車場の砂利の中に落としてしまって、探しても探しても、見つからなかった。

元々自分のものではないから、こうなってしまったのも仕方ないと諦めて、しばらくした頃。

わたしはその石によく似た石を、母のアクセサリー箱の中で見つけた。

当時のわたしは、それをあの石そのものだと思って、ひどく動揺した。

わたしが失くしたあの石を、母が拾って持っているのだと。

母親にわたしが人のものを盗ったとばれたのだと思って、しばらくの間はいつ怒られるのかと怯えていた。

 

でも、母親からは何も言われなくて、そのままわたしも忘れてしまった。

 

 

 

その石が、今わたしの両耳で揺れている。

 

巡り巡って、幼い頃、わたしがあれほど欲しかった石がここにある。

その名はカーネリアン。

あの頃は名前さえ知らなかった石。

大人になった今の自分は、選ばないような石。

 

でも、この石が今わたしの手元に来たのは、何かしらの意味があるように思えて仕方ない。

 

この石とは運命めいた何かを感じるから、その意味を探したいと思う。

 

 

I’ll always love you.

 

幼い頃から、わたしは動物と一緒に育った。

わたしの成長の過程にはいつも傍らに、愛すべき小さな存在がいた。

 

幼稚園の頃から動物が大好きだったわたしは、あの頃から将来の夢は動物のお医者さんだった。

はじめて飼ったのは小さなジャンガリアンハムスターだった。

母がわたしのために連れてきてくれた小さな友だち。

モモちゃんという名前だった。

 

わたしはそれまで、「死」というものに触れたことがなかった。

幼少の頃に父方の祖父母を亡くし、母方の祖父も亡くしている。

まだ幼いわたしは両親に連れられて何度か祖父母に会ってはいるけれど、それも彼らが病に伏してからであって、わずかに残る記憶では会ったのは病院で、何か言葉を交わした記憶も持っていない。

彼らの葬儀に参列したわたしはあまりに幼く、葬儀というものが何なのか理解していなかった。周りの人が悲しそうにしている理由も分からず、故人のお骨を取っているときも不謹慎にもバーベキューをしているみたいだと子ども心に思っていた。

幼いわたしは祖父母との思い出をほとんど持たなかった。今思えば、思い出をつくる前に彼らがわたしの前を去ってしまったことはとても悲しいことだけれど、当時のわたしは祖父母との思い出を持たない故に永遠の別れの意味を理解できなかった。

 

母方の祖父と最後に会ったのは、白くて小さい他とは隔離された病室で。

幼いわたしは両親と共にマスクと白衣を着てその病室に祖父に会った。

きっとそれが祖父と最後に会った日なのだけれど、祖父の顔も何を話したかも覚えていない。

わたしはあの白くて四角い隔離された病室が怖かった。だからその記憶だけはあるのだと思う。

 

父方の祖父母とは生きていた頃の記憶はない。最後に祖父母の家で、暗い和室に横たわる祖父の遺体が扉の隙間から見えたこととお線香の匂いしか覚えていない。顔に布をかけられたその姿は幼いわたしにはひどく不気味で、その部屋に近づきたくなかった。

祖母に至ってはそのような記憶さえもない。

唯一残っているとすれば、それは形見として渡されたメダイ。

聖母マリアのペンダントは幼稚園の卒園時に授与された青い石とよく似ていた。

祖母のそれは、幼稚園でもらったものとは違い銀色でふた回りくらい大きかった。

幼稚園から貰ったそれが神聖なもので、神様の宿るものだと知っていたわたしには、祖母の形見のそのメダイは特別なものだった。

とはいえ、故人との思い出を持たないわたしにはその形見は「死」という概念とは結びつかない、ちょっとしたお宝みたいなものでしかなかった。

 

 

 

そういうわけで、わたしは幼い頃に三度も身近な人の死を経験したはずなのに「死」というものを知らなかった。

何も知らない幼いわたしが「死」は永遠の別れなのだと知ったのは、モモちゃんがわたしの元から永遠に去ったあのときだった。

 

モモちゃんはわたしのペットだった。

自分でお世話をして、部屋の掃除をして、ごはんをあげて、幼いわたしは自分なりにあの子を可愛がっていた。

だからモモちゃんが死んだとき、あの小さな友だちがもう二度と動くことがないと知って、わたしはひどく泣いた。

体はまだそこにあって、眠っているようなのに何かが違う。幼いわたしはモモちゃんの最期の姿を見て、あの子の魂がもうそこにはないことを感覚的に理解していた。

硬くなり、腐敗して匂いを放ち、朽ちていくその姿にわたしははじめて「死」を見た。 

わたしはあの途方も無い悲しみを忘れることができなくて、モモちゃんの餌箱とお菓子の家を高校生くらいまでずっと大切に持っていた。

 

 

それからしばらくして、わたしはまたジャンガリアンハムスターを飼い始めた。

ガンちゃんとアイちゃん。

モモちゃんと同じグレーのガンちゃんと、雪のように真っ白のアイちゃん。

一匹だけでは寂しいだろうから、と二匹同時に飼っていたけれど二匹はよく喧嘩をして、いつも傷つくのはガンちゃんだった。

憐れみからか、わたしはガンちゃんのほうが可愛がっていた。

いつも弱かったガンちゃんは先に逝ってしまって、それからわたしはアイちゃんを可愛がろうと努力した。

あの子はちょっと凶暴で、よく噛まれていたから避けてしまったいたけれど、ガンちゃんが去り、「死」をまた身近に感じて、このままアイちゃんとお別れしてしまったらわたしはあの子を愛せなかったと悔いるに違いないと思った。

それからアイちゃんは少し穏やかになっていって、優しい気持ちのまま最期を迎えた。

 

 

ハムスターの寿命はあまりに短く、短い期間に何度も永遠の別れを経験するのはあまりに辛かった。

わたしはそれから自分のペットを飼っていない。

 

 

それからしばらくして、弟がモルモットを飼い始めた。誕生日プレゼントに母に頼んだと聞いた。弟はわたしがペットを飼っていたことがずっと羨ましかったのだと、後々母から聞いた。

モルモットの名前はモルちゃんという単純な名前で、弟はとても可愛がっていた。

ほどなくして、ひとりでは寂しいだろうと母がもるちゃんの小さな友だちを連れてきた。

まだモルちゃんよりも小さい茶色のモルモット。その子はちゃっぴーと名付けられた。

モルちゃんは弟のだったから、わたしはちゃっぴーを一段と可愛がっていた。

でもその小さな命はあまりにも短かった。うちに着て、わずか三週間ほどでわたしの元から永遠に去った。

ちゃっぴーの死んだ夜、わたしはあの子の声を確かに聞いた。夢や幻なんかじゃなかった。

きっと最期にあの子はお別れを言いにきてくれたのだと、わたしは思った。

 

モルちゃんは五年も一緒にいてくれた。

だから、後悔しないようにありがとうも大好きもたくさん伝えてきた。

あの子を愛する時間は十分にあった。病気で弱り果てて死んでいったときはとても悲しかったけど、あの子はとても頑張ってくれたから、ちゃんとお別れができたと思う。

でも、モルちゃんがいなくなってうちは三人

家族だけになってしまった。

母はとても寂しかったみたいで、ある日モルちゃんとちゃっぴーによく似たモルモットを二匹連れて帰ってきた。

ママはモルちゃんとちゃっぴーが生まれ変わって帰ってきてくれたのだと言った。

よく似たあの子たちに、同じ名前をつけてわたしたちはあの子たちと共に過ごした。

はじめのうちは、前の子たちに重ねていたけれど、途中からは別の命として愛していた。たぶん、母もそうだ。

前の子たちを亡くして、一番落ち込んでいたのは母だったから。

同じ名前をつけたけれど、2代目の子たちはどちらも男の子で、ちゃぴお、もるお、と呼ぶようになり、次第にそれが正式名称になった。

あの子たちはもう五年近く生きていて、その間にわたしは高校を卒業して大学生になり、実家を出た。

だから、あの子たちとずっと一緒にいたわけではなかったけれどあの子たちはわたしたち家族にとっての絆そのものだった。

わたしも弟も家を出て、ひとり残された母はあの子たちをとても可愛がっていた。

 

そして今朝、ちゃぴおが虹の橋を渡っていったと連絡があった。

少し前からちゃぴおはひどく弱っていて、病院に行って処置を施してもらい帰ってきたあの子を母が献身的に世話していた。

つい先日、弱っていながらも大好きな苺を一生懸命に食べるあの子の姿をスマホの画面越しに見たばかりだった。この子には生きる意志があるのだの、嬉しく思った。

 

今日は何の予定もなく、目覚ましもかけていなくて、昨晩遅くまで本を読んで起きていたから昼くらいまでゆっくり寝ようと思っていた。

いつも予定がない日は昼過ぎまで目が覚めない。

なのに今朝は8時過ぎくらいに唐突に目が覚めて、何かを考えもしないうちにスマホの通知が鳴って、見たらちゃぴおの死を告げる母からのメッセージだった。

 

きっと、あの子がお別れを言うために起こしてくれたのだと思った。

あの子たちは食べることが大好きで、お腹が空けばケージを二匹一緒にガジガジ齧りまくって食べ物を求めた。

わたしたち家族はそれをうるさいねえ、と笑いながらもとても愛しく思っていた。

わたしは彼らがそうするたびに、ごはんをあげていたし、いつももるおのほうが強くてちゃぴおのごはんを横取りしたから、こっそりちゃぴおに多くごはんをあげたりしていた。

だから、歯が伸びすぎて食べ物をほとんど食べれずに弱り果てて死んでしまったあの子がとても可哀想で。

数日後、わたしは実家に帰る予定だった。

そのときにはちゃぴおに美味しいものを食べさせて、膝に乗せて撫でてあげようとそう思っていたのに。

それはもう、永遠に叶わない。

帰ったら、もるおしかいないケージが待っていると思うととても悲しくて、死を告げられてしばらく実感がなかったのに、あの子のいない家を想像したらあまりに悲しくて涙が出た。

 

でも、あの子は長生きしたし、その間たくさん美味しいものを食べて幸せに生きてくれたと思う。最期のときも、ひとりぼっちではなかった。

今朝は、不思議に白く眩しい美しい朝だった。

暗く冷たい夜ではなく、明るく眩しい朝でよかった。

 

「死」に色をつけるとしたら、多くの人が黒を選ぶことだろう。今までならわたしも黒を選ぶと思う。

でも、今ならわたしは白を選ぶ。

死を恐れるものにとって、死は暗闇や絶望を表す黒をイメージするだろう。

でも死を受け入れる覚悟のあるものにとってはそれは違う。死は終わり。この世界からの導きの光。

ちょうど、今朝の光のような白。

全てを包み込む白く眩しい光。

あの子にとって「死」はあの子から安らぎや幸せを奪うものではなく、あの子を苦しみから救う穏やかで安らかな眠りであったと思う。

だからあの子は、暗く冷たい夜の闇に怯えて逝くのではなく、あの白く眩しい光に導かれて旅立っていった。

 

 

こんなに美しい朝の光に導かれてあの子が旅立っていったのならきっとあの子はもう天国にたどり着けただろう。

 

きっとそこには、モモちゃんもガンちゃんとアイちゃんもいて、ちゃっぴーもモルちゃんもいる。

そこはあたたかくて優しい、幸せな場所に違いなくて。

あの子たちは瑞々しい青い草の上でたくさん眠って、大好きな食べ物を好きなだけ食べて幸せに過ごしている。

きっと、きっとそう。

 

そしてあの子たちはこの先も、わたしの中で生き続ける。白いあたたかい光となって、わたしの中に宿っている。

 

 

ずーっとずっと大好きだよ、ちゃぴお。

 

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わたしたちのところに来てくれてありがとう。

頑張って生きてくれてありがとう。

またいつか、あなたに巡り会えますように。

愛していたよ。

愛しているよ。

 

I’ll always love you.

 

 

あなたが幸せでありますように。

 

 

 

 

 

Merry Christmas

 

 

わたしがサンタクロースに頼んだプレゼントは全てではないけれど、いくつかは覚えている。

 

 

大きな犬のぬいぐるみ。

この子はヘアカットをしたり、毛糸でリードと首輪を作ったりして、わたしなりに可愛がっていた。

自分の名前とよく似た名前をつけて、子どものわたしなりに可愛がっていたけれど、今思えば伸びない毛を切られたり、首に紐を巻かれて引きずり倒されたのだから結構可哀想だったかもしれない。

 

 

 

一番記憶に残ってるのは、切り株の中にいろんな動物がたくさん入ってるやつ。

リスやビーバーなんかの森の動物たちが当時のわたしの身長くらいある大きな切り株の中に30匹くらい詰め込まれた、最高のぬいぐるみ。

 

クリスマスの晩はいつも枕元に靴下を置いて眠った。

ゲームソフトみたいに小さなものならそこにいれてくれていたけれど、大きなぬいぐるみなんて入るわけない。

だから、上に置いてくれればいいと思ってそのときは眠った。

けれど、翌朝目覚めたわたしが靴下を確かめると何かが入っている。

取り出してみると、中からふくろうのぬいぐるみが出てきて。わたしは泣いた。

ふくろうのぬいぐるみなんて、頼んでない!サンタクロースがプレゼントを間違えた!と朝から大泣きして家族を起こした。

母がなだめるように、よく探してごらんと言ってきて。泣きながら他の部屋も探すとトイザラスの袋があって。

その中にはちゃんと、お願いした切り株があった。ふくろうはその中の一匹だったようで、わたしはようやく泣き止んだ。

 

そのときのことは、未だに家族全員がよく覚えていて。泣いたよねえ、と母に笑われる。

あの切り株の中にはふくろうは二羽いて、あの切り株のぬいぐるみたちはもう手放してしまったけれど、あのときの靴下に入っていた子は今でも手元にある。

 

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大人になったわたしの元にサンタクロースはもう来ないけど、あのふくろうを見るたびにサンタクロースとまた会えたような気持ちになるのだ。

 

今なら思う。

本当のプレゼントは、プレゼントそのものではなくて。

クリスマスのあたたかい思い出や楽しい記憶だと。

 

子どもの頃の幸せな思い出。

それこそがサンタクロースからのプレゼント。

 

たとえ、サンタクロースが実在しなくてもサンタクロースというクリスマスの魔法は確かに存在している。

 

だって、サンタクロースを信じていないとクリスマスの魔法にはかからない。

プレゼントをもらえるのは、信じている子だけ。つまり、いい子だけ。

サンタクロースを信じている子どもはいい子であろうとするものだから。

 

 

信じてさえいれば、大人になっても魔法はかけられる。

むしろ、大人にならないと気づけない魔法。

だって、子どもの頃の思い出なんて大人になって時間が経ってからでないと思い出さない。

わたしたちは、大人になってもう一度プレゼントを受け取る。

子どもの頃、愛された記憶を。クリスマスの思い出を。思い出すたびにあたたかくて優しい幸せな気持ちを受け取るのだ。きっと。

 

 

 

 

 

 

Heavenly Christmas Delight Tea

 

 

今夜はついにクリスマスイブ。

アドベントカレンダーもこれで終わりです。

『Heavenly Christmas Delight Tea』

 

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昨日、バイトの後にデパ地下に行ってオードブルやらケーキやら買って帰った。

 

自分の好きなものだけを選んで、自分のためだけにクリスマスの準備をした。

 

家族も恋人もいない、わたしだけのクリスマス。

だから、いかに自分で自分を楽しませることができるかが大事なのです。

 

チキン、ローストビーフ、スモークサーモン、モッツァレラチーズとトマトのジェノバサラダ、マッシュポテト、サラミ、キッシュ、ラザニア……。

 

好きなものだけを選んだ。

ケーキも今日と明日とでふたつ。

いちごのショートケーキとミルクレープをあの、大好きなお店で並んで買った。

 

それを綺麗にテーブルに並べて、ネトフリでクリスマス映画を見ながら食べた。

 

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去年は恋人と過ごした。

 

 

今年の方がずっと豪華でクリスマスらしいクリスマスを過ごしている。

でも、サイゼの安いワインで乾杯して一緒に眠ったイブの夜のほうがずっと……幸せだった。

 

でも、わたしはもうひとりでも充分楽しめる術を知っているし、誰かと過ごさなくてもクリスマスはクリスマス。

 

 

 

昨年のクリスマスより、ずっと幸せなクリスマスはいつか来る。

思い出を上書きできるくらいに素敵な夜が。

 

だから、今夜はこれでいい。

メリークリスマス。

みんなが幸せな夜でありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hildegard-Relaxing Herbal Tea

 

 

今夜は『Hildegard-Relaxing Herbal Tea』

 

 

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昨晩は本を朝方まで読みふけっていたせいで、盛大に寝坊して、生まれて初めてバイトに遅刻した。

 

 

少し前まで、本なんて滅多に読まなかったのにあっという間に昔の自分を取り戻せたような気分。

夢中で本を読んで、ページをめくる手が止められなくて、本の世界で生きているくらいに物語が好き。

そんな自分が失われていくようで、ここ数年は寂しかった。

 

 

この一年、考えて、考えて、考えて。

ひたすら自分を見つめなおして。

 

結局辿り着いた答えは、単純なことだった。

わたしは物語が好き。言葉が好き。

書くことが好き。

 

結局、ここに戻ってくるんだ。

 

 

昔から、あんたはおかしいって変わってるってママに言われていた。ママはそれをいい意味で言っていたから、わたしはそれに応えようとした。

中学生くらいから、ママや弟の笑ってもらえるのが嬉しくて、おかしなことばかりした。

次第にわたしはそういういう自分が自分だと思うようになった。

 

家族から離れて暮らすようになった。

ひとりきりの生活は、誰にも求められず期待されず失望されない。

楽だった。

 

家族の前だけじゃない。

わたしは誰かといるといつも違う。

気弱な子といるときは、その子を引っ張る役を。上に立ちたい人といるときは、その人を頼る役を。

真面目で頼れる役も、愛嬌を振りまく役も、何もできない馬鹿の役も。

わたしは特に意識もせず、相手や場所によって演じる役をころころ変えていた。

無意識に誰かの求める自分を演じていた。

 

 

だから、わからなくなった。

「あなたはどんな人間ですか?」

そう聞かれるとわからなかった。

本当の自分なんて、わからなかった。

 

 

ひとりきりの世界は気楽だった。

誰にも求められない世界。

退屈で、寂しくて、孤独で、虚しかった。

 

ひとりでいる時間が多くなって、自分と向き合う時間が増えた。

何も演じないからっぽの自分。

誰にも求められない自分。

 

 

家族には、変わった子って思われていたけど、それでは社会に適合しないから、普通になろうと思った。

普通の女の子みたいにしようと思った。

わたしは自分に当て書きをして、それを演じた。

でも、出来上がったのは普通にもなりきれない、特別変わっているわけでもない、中途半端なつまらない人間。

 

わたしは自分に失望した。

こんなつまらない人間がわたしなのかと。

 

 

友達がたくさんいて、いつも明るくて、馬鹿で、変な子。それが家族の中のわたしだった。

でも本当のわたしは、本当は他人に興味がなくてひとりが気楽なつまらない人間。

 

どうしたらいいか、わからなかった。

 

 

恋人ができた。

わたしはその人にもっと好きになってほしくて、いろんな自分を演じた。

でも、空回りしてばかりだった。

その人はわたしに何も求めていなかった。

それどころか、時々うっかり素の自分に戻ってしまったときのほうが一緒にいて楽しそうに見えた。

だからわたしは、彼の前で演じることをやめようとした。

これは本当に難しくて、誰かの求める自分を演じるほうがよっぽど楽だった。演じることをやめるということは、今まで頑なに閉ざしていた心を他人に見せるということで。

弱いわたしには難しかった。

それでも、わたしは徐々に演じることをやめて、ただのわたしでいるようになった。

彼はわたしにいろんな感情をくれた。

彼のくれた感情はあまりに激しくて大きかったから、わたしはずっと抑えてた感情の箍を外して、表情筋が痛くなるくらい思いっきり笑ったり、目が腫れすぎて開かなくなるくらい泣いたり、声が枯れるくらいに怒ったりした。

 

 

つまらないだけのわたしは、たくさんの感情をもらって自分を見つけた。

 

 

それから、少しずつ自分を見つめ直して、どんな自分でいても変わらないことを見つけた。

 

物語が好きなのも、そのひとつ。

 

わたしはずっと物語が好き。

書くことが好き。

 

色々遠回りしたけど、やっと少し見えてきた。

そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

Guardian Angel Tea

 

今宵のお茶は『Guardian Angel Tea』

守護天使のお茶。

 

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このお茶も残り僅か。

街はすっかりクリスマスムードで、街行く人々は色めき立って、プレゼントやケーキの箱を下げて歩いている。

 

 

本来、クリスマスはイエス様の生誕を祝う日。

わたしは幼稚園がキリスト教だったから、クリスマスという日についてはある程度知っている。

 

幼稚園では週に何度か、お御堂へ行って目を閉じて祈りを捧げて園長先生のお話を聞く時間が設けられていた。

園長先生は幼稚園児にもわかるように、聖書のお話をいくつか話して聞かせてくれた。

 

 

幼稚園の頃のことなのに、今でもそのお話は覚えていて。

たとえば、祈るときに手を合わせる。

そのとき手のひらの中に神様がいらっしゃるから、優しく握るんだよ、とお話してくださった。

 

あの幼稚園での教えは、宗教的な面はあまり強くなくて。

キリスト教を強制させるとか、怖い一面もなく、ただ人として大切なことを聖書の教えに沿って教えていた、という感じだ。

たとえば、自分が嫌なことは人にしない、とかそういう単純で簡単なこと。

 

 

当時覚えたお祈りは今でも諳んじて言えるし、聖歌もひとつだけ覚えている。

それに、あのお御堂は好きだった。

静かで、洗練された、神様のいる場所。

あの場所に入ると心が研ぎ澄まされるような、そんな不思議な感覚をあの頃のわたしは感じていた。

 

何よりステンドグラスは美しかったし、そこから差し込む光はもっと美しかった。

 

 

あの幼稚園では、年長になるとクリスマスの時期に聖劇をやる。

多分、わたしはあの時はじめて何かを演じる、ということを覚えたのだと思う。

 

わたしの役は聖母マリアを導く天使のひとりだった。

真っ白いワンピースに天使の輪、それに純白の羽を背負って、手には星を持ってくるくると踊った。

わたしは天使という役をいただいたことをとても誇りに思っていて、一生懸命演じた。

 

あの幼稚園での思い出はとても素敵なものばかりで、今でも覚えている記憶がいくつもある。

 

 

卒園式には、クラスにひとり代表が選ばれて舞台に上がって園長先生から聖書をいただくのだけれど、わたしはその代表に選ばれた。

 

当時からバレエを習っていたわたしは、誰よりも姿勢がよかったから、という理由だった。

姿勢の良さを褒められて代表に選ばれたことが、あの頃のわたしにはとても嬉しくて誇らしかった。

 

 

クリスマスにはそんな、幼稚園での記憶を思い出す。

古い記憶ほど忘れていってしまうものなのに、あの頃を未だによく思い出せるのは、それだけ忘れたくない記憶だからなのだろうな。